サロマ湖キャンプからの帰りに遠軽町の瞰望岩に登ってきた。
市街地中心部を見下ろすように聳える高さ80mの垂直の岩壁、ロッククライマーでなければとてもその上には立てないように見えるけれど、
その裏側の頂上直下まで道路が通じていて、そこから僅か数分で瞰望岩の頂に立つことができる。
その頂上には無粋な柵も設置されていないので、恐怖と引き換えに遠軽町市街地を眼下に見下ろす絶景を楽しめる。
ここの登り口に立てられた案内板に、瞰望岩に関するアイヌ伝説について書かれていた。
その内容、他の何処かで見たものととても良く似ていることに気が付く。
昔、湧別アイヌと十勝アイヌの間で争いが起こり、湧別アイヌはこの瞰望岩をチャシとして十勝アイヌの大群を迎え撃ち云々。
それと同じような内容が書かれていたのが、様似町の観音山に立てられていた案内板である。
大昔、十勝アイヌの略奪群が攻め込んできて、シャモニアイヌは観音山に陣地を構え云々。
あくまでも伝説なので、その信憑性は気にしなくても良いのだけれど、様似と遠軽の遠く離れた地で、
十勝アイヌを悪者に仕立てたような伝説が残っていることが、とても興味深く思えてしまった。
そこには偶然の一致ではない、何か共通の流れでもあるのだろうか?
十勝アイヌってそんなに侵略好きだったのだろうか?
確かに1770年に十勝と日高沙流のアイヌが抗争した記録もあり、様似なら十勝と近いので十分に考えられる話だ。
しかし、遠軽と十勝は遠すぎる。
そこで、Googleの航空写真で確認してみたところ、十勝からオホーツクに出ようとして真っ直ぐに川沿いなどを北上していくと、
確かに遠軽に出てくる。
でも、採取生活が基本のはずのアイヌが何故はるばると遠軽まで行く必要があるのか。
まあ、何の交通手段も無い時代にアフリカで誕生した人類が南アメリカの先端まで広がっていくのだから、
それと比べたら十勝と遠軽なら軒を接する隣人みたいな関係なのかもしれない。
たまたま見かけたアイヌ伝説の看板をきっかけに、色々と思いが広がっていく。
前日には常呂町の遺跡の森を訪れ、続縄文時代から擦文時代の竪穴式住居を見たばかりだった。
これらはアイヌとは直接関係の無い遺跡になるのだろうけれど、それじゃあこの人達は何処へ行ってしまい、
アイヌ民族は何処からやって来たのか、知りたいことはどんどんと増えてくるばかりである。
ちなみに、様似町の観音山も5月中~下旬にかけてオオバナノエンレイソウなどが一面に咲く、魅力的な場所。
アイヌ伝説を訪ねる旅も面白そうである。
ヒデさん、こんにちは。
アイヌ人のルーツは大陸系といわれ、近年の調査では(DNA等)中央アジアあたりからやってきた人種とも考えられているようです。
しかし、現在北海道対岸のロシアに住居しているツングース系とは人種も文化(遊牧)も違っており、相似性はあまりないようです。
学生時代考古学研究会に入っていて、1000年くらいの前の人骨を発掘(伊達市黄金貝塚)しましたが、当時の人種は「続縄文人」と類別される骨格的特徴が見られ、現在のアイヌ人とは区別されました。
なので、いつ?どこから?が今でもわかっていないようです。
戦争、侵略は・・・・
現代の感覚とは違うと思いますが、主に天候不順による食料の不足が引き金になっている気もしますね。
ある時期十勝を中心とした大きな天変地異(冷害、噴火、津波)でもあったかも?
kudopapa、こんにちは。
まさか、考古学研究会まで出てくるとは、kudopapaの守備範囲の広さに驚かされます。(笑)
かみさんは以前から、発掘調査の現場で働きたいと言っているので、もし伝手でもあればよろしくお願いします。(笑)
> ある時期十勝を中心とした大きな天変地異(冷害、噴火、津波)でもあったかも?
なるほど!
それはありそうですね。
特に津波!
北海道の太平洋沿岸には4~500年周期で巨大津波が押し寄せた痕跡があるそうですし、津波に追われた十勝アイヌがそのまま日高山脈を越えたり、北に逃げて遠軽に出たりと言うのは十分に考えられます。
こんな事を想像するのも楽しいですね。(^_^)
キョエ~
何時見ても怖い岩!!!
ボクは絶対もう行かない場所(^^ゞ
旭岳山頂から見下ろすより瞰望岩のほうが
恐怖心を強く感じるボクです。
アサさん、こんにちは。
下が見えるギリギリまで近づこうとしましたが挫折しました。
チョ~怖かったです。